最近、建築における「形式」と、その逸脱のバランスについて考えている。ここでいう形式とは、形を生み出すためのルールのようなものだ。たとえば、アーチを連続させて場をつくる。床の凹凸だけで空間をやり切る。同じ断面を何度も反復する。そうしたルールを設定し、その勢いのまま建築を展開していく方法がある。学生の頃、先生がよく「形式をドライブしろ」と言っていたのを思い出す。なかなか格好いい言葉だった。
このやり方には、たしかな強さがある。全体に芯が通り、明快な構成をもった空間になるからだ。見た瞬間に「こういう建築だ」と伝わる力もある。けれど最近は、その形式を最後まできれいに守り抜くこと以上に、途中で少し崩れることの面白さに惹かれている。ある地点でわずかにずれる。少し破綻する。予定調和から半歩だけはみ出す。その瞬間に、建築は急に生き物のような気配を帯びる。綺麗なフォームを身につけた選手が、実戦では半身を捩りながらゴールを決める。あの感じに少し似ている。
そんなことを考えながら散歩していたら、日本語の数え歌が聞こえてきてふと繋がった。
「ぴき、ひき、びき~」みたいな歌詞の歌だ。
カエルを数えるとき、私たちは1匹、2匹、3匹と数える。ここにはまず、「カエルは匹で数える」というルールがある。この「ひきで数える」と決めることが、今話している建築の形式に近い。ところが実際には、「ひき、ひき、ひき」とはならない。1匹は「いっぴき」、2匹は「にひき」、3匹は「さんびき」と音が変化する。ルールが壊れているようにも見える。けれど、そうではない。ここではむしろ、ルールが現実の発音・身体性・流れに触れて、自然に変形していると考えてみたい。
建築の場合だとどうだろう。グリッドの一部だけ歪む。反復する窓の一つだけ大きい。列柱が地形に合わせて少し曲がる。それらは形式の失敗ではなく、形式の活用形なのだと思う。本当に強い形式は、多少崩れても骨格が残るものだろう。変形してもなお、それとわかること。そういうしなやかさこそ、形式の強みなのかもしれない。
一方で、英語では one, two, three と数を示せばよく、日本語のように「匹」「冊」「軒」といった助数詞は基本的に必要ない。対象ごとの差異をそぎ落とし、数そのものを抽象的に扱うその態度は、どこかモダニズムにも似ている。できるだけ少ないルールで、世界を整理しようとする感覚だ。これは透明で美しい強さがある。
日本語に戻ろう。対象ごとの数え方があり、そのうえ発音のゆらぎまで含まれている。世界の細かな違いを、そのまま言葉の中に残している。形式が現実に触れ、少し崩れ、訛ったときにしか生まれない美しさもある。建築とは、抽象が現実に触れて訛った姿である。なんだか、訛った方が良い気がしてくる。
