足場丸太を探しに泉州へ向かった。
きっかけは、パートナーの大工との会話だった。京都の社寺や数寄屋建築を手がける親方のもとでは、今でも足場を丸太で組んでいるという。鉄の単管足場が当たり前になった現在、その話は少し意外だった。しかし同時に、強く心を惹かれた。
足場丸太を扱う材木置場には、大量の丸太が積み上げられていた。聞けば、丸太足場の出番は少なくなっているものの、狭い場所や特殊な条件では今なお必要とされているらしい。そこには新しい足場丸太だけでなく、実際に現場で使われていた古い足場丸太も並んでいた。表面は灰色に変色し、ところどころに古いペンキの跡が残る。建築を支えた時間の痕跡が、そのまま刻まれているようだった。もともと私が探していたのも、そうした古い足場丸太だった。けれど現地では、別の素材にも目を奪われた。面皮付きの細い丸太である。少し曲がり、少しねじれ、真っ直ぐではない。足場材としては扱いづらいそうだが、その不均質さが魅力的だった。効率や規格からこぼれ落ちたものに、かえって豊かな表情を感じることがある。
足場は本来、建築をつくるための脇役である。建物が完成すれば解体され、その役目を終える。しかし、実際に足場丸太を前にすると、その考えは少し揺らぐ。丸太を針金で結びながら組み上げる足場には、仮設でありながら構造物としての美しさがある。私が足場丸太に惹かれる理由も、そこにあるのかもしれない。
組み替えることができること。即興的に立ち上げられること。そして、役目を終えれば解体され、また別の場所へ運ばれていくこと。足場丸太には、完成を目指す建築とは少し異なる自由さがある。建築を考えるとき、私たちは完成した空間に目を向けることが多い。しかし、その背後には素材の来歴や、人の手による営みの積み重ねがある。今回出会った足場丸太もまた、そうした物語をまとった素材だった。まずはこの素材を手がかりに、小さな仮設の空間について考えてみたい。
